実際目の前でトリアージで選別されるのを受け入れられるかどうか

はてなブックマークで盛り上がってる、トリアージの話。


大規模災害発生時にトリアージが行われる、ということと、トリアージの意義は頭では理解しているものの実際にその場で受け入れられるかどうかは、分からない。私は男子だけれどもそこまで割り切れるものだろうか。


例えば地震発生直後に怪我して病院に行ったとして、停電してたり(ま、非常灯の明りがあるだろうけれども)他にも怪我人が多数いて、ベットが足りないから廊下とかロビーとかに患者を並べていたり……という状況で、

私「割れたガラスを踏んづけたので来たんです」

っていう場合

「それくらいなら唾でもつけて我慢しとけ(※意訳)」

という感じで、程度が軽微だからと後回しにされる……のは、まぁ分からなくもないだろうと思う、きっと。自分が我慢すればいいだけし、結果死ぬわけじゃないし。
私の足の裏を縫うより、他の人の治療を優先させる意義も理解できるだろうと思う(たぶんね)。




問題は家族が重篤で、トリアージの結果治療を受けられないケース。


この場合、冷静に判断できるかは分からない。お前ら医者が少し頑張ればいいんだろ!とか食って掛かるかもしれないし、その病院では無理でも、他の病院に搬送できないかとか、出来る限り食い下がるだろう。


で、それらの行動自体がトリアージの理念から言えば全く無駄な行為で、効率的な医療業務を円滑に行い、一人でも多くの人命を助けるためになら、トリアージの判定に抗議をすることも時間の浪費に他ならない。
なので、全体の効率を優先し、合理的に行動するなら判定に不服すら示すのも無駄になる。




……という、理屈も理解はしているつもりです。でもなぁ、そこまで現場で判断できるかどうか。
実際、災害発生時で現地では情報が錯綜するし、

「はい、いま中越地震が発生しましたよー」「主要な道路は全て使えませんよー」

と訓練じゃないんだから、情報を即座に得られるわけでもなんでもない。


身近に起きた災害というと、中越地震なんだけれど、あれも被害がどれくらいだったのか、そもそも被害があったのか?ということはかなりの時間が経たないと分からなかった。


現地にいれば尚更で、そうした被害の規模、ライフラインの状況というのは誰にも分からないまま事態が進むことになる。実際は主要道路がかなり損傷があって、仮に救急車両を出し被害地域を脱して患者を搬送するのは相当な労力が必要なことになるんだけれども、それもその場では分からない。
他の病院なら空いているんじゃないだろうか、とか、なんなら自分の車で運ぶわ、とか、ヘリで搬送できないか、とか色々な手段を講じて欲しい、と願うのが家族だろうし。
もっと言えばそもそもトリアージを行うほどの状況なの?とかその病院のキャパなんて、分からないのだからもっと努力すればどうにかできないか、などと考えることもあるだろう。


その情報が少ない段階でトリアージの判断そのものと、トリアージを行うことの妥当性について、即座に理性的に理解しドライに割り切って行動できる自信はないなー。ま、感情的な捉え方なんでしょうけれども、こういう見方は。

参考リンク

経験者から言うと阪神大震災クラスであれば速やかに社会的合意がなされます。経験者で無いと最後の実感が共有し難いところもあるかもしれませんが、街中が瓦礫の山と化し、あちこちで大火が起こり、電気も水もガスも通じないだけではなく、電話も広範囲で不通になります。病院にたどり着いても病院もまた大きな被害を受けており、そこまで見せ付けられたら負傷者もまとまな治療は受けられないと直感します。

問題となったのはJR脱線事故クラスです。あれも大きな事故でしたが、阪神大震災に較べると災害の現場規模が非常に限られています。事故現場は間違い無く修羅場で、大量に発生した負傷者の受け入れは、その搬送能力も含めて非常時ではありましたが、ものの100mも離れればごく平穏な日常生活が営まれています。何が言いたいかといえば、事故現場の人間の状況判断として非常時であることは正しいですが、周囲の人間にまで必ずしも社会的合意がなされていない可能性があるという事です。もう少し直截的に言えば、遺族にとっては必ずしも全員がトリアージが必要な非常時と見なされない可能性があるということです。

2007-05-01



ここでの例にもあるように、天災ならまだしも脱線事故のような事例の場合は、その判断を受け入れられるかは分からないな……。