春彦氏の魅力

昨日の追悼番組を見ていて金田一春彦氏の説明の特徴は、膨大な知識に裏付けされた適切な例示と、現在の言葉の問題を絶妙にからめている部分だと思った。


番組から一つ抜粋すると



「ら抜き」言葉というのがある、
「見られる」を「見れる」と略したりする言葉なのだけれど、春彦氏によるとこれは言葉の自然な変化だそう
見られるの場合、
見られる
尊敬の用例;先生が見られる
受け身の用例:誰かに見られる
可能な用例:ようやく見られる
などの複数の意味を持つことになるのだが、「見れる」の場合は可能の用例しかなく、誤用・誤認が少なくて済む、というメリットがあるとのこと


さらにこうした言葉の変化は江戸時代にもあり、当時は「書ける」ではなく「書かれる」と使っていた*1のだが、やはり同じ理由(と推測される)で現在のように変化したとのこと


このことを見て思わず膝を打って、納得した次第。なるほどなぁ



今度、氏の著作を読んでみようかな。

*1:関西地方で「書かれへん」という言い方があるのはその名残