障害者から見た障害者への視線 その1
先日(id:rikuo:20051105#p3)の件。
はてな 障害者に対して「あの人は不幸である」という事を考えてしまうと「そのように考えるのは良くない事である」という感情が生まれるのは何故?
という質問に対して、私の考えることなど。
私自身もそうした考えをしてしまって「それは良くない事である」と、考えた経験があるので、書いてみます。
まず、私のことを説明しておくと、私は右耳が先天性の耳介形成不良で、このような耳をしています。
右耳に注目してください
普通の耳とは違い、とても小さく奇妙な形をしています。
こういう耳の特徴から、いわゆる、小耳症(しょうじしょう)と言われるもので、また、私の場合は外耳道閉鎖つまりは耳の穴がふさがっているために、右耳はほとんど聞こえません*1。
その後、小学生のときに形成手術を行ったので、現在は写真の耳のままではないのです。しかし手術をしたと言っても本物の耳そっくりに形成できたけではないので、見た目は変な耳になっています。でもメガネをかけれるようになったのは、手術のおかげですが。
という訳で、私も障害者です。
ただ、左耳は健聴なので日常生活にはあまり支障はありません。右側から話しかけられたりすると、かなり聞き取り難いですが、それは聴き返せばいいわけです。また周囲の音が大きいところでは特に聞き取り難いですけれど、それは健聴の人でも程度の問題で同じようなものですね。
ただ、音の方向は分かり難いです。
音の発する方向の認知には、左右の耳で感知する差異で判断するそうで、私にはそれができないため音源の位置を特定するのには時間がかかります。しかし、全く分からないという訳でもなく、例えば携帯の着信音が天井から聞こえるなどということは有り得ないので、視覚やその他情報である程度の推量することは出来るため、瞬間的には分かり難くても大体、位置の特定はできます。
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他の障害者に対して
それで、私は右耳が小耳症なのですが、同じ小耳症でも両耳が小耳症という方もいます*2。
さらに外耳道閉鎖が伴っているの場合、補聴器などで補っていることが多いようです。
それで以前小耳症のオフ会で、両耳小耳症の方にお会いしました。その方は、補聴器を利用しているとは言え、かなり聞き取り難そうで、街中などでは特に周囲の雑音で会話が拾えないようでした。
またお話を訊くと、補聴器も決して安いものではないそうです。
そのときに、両耳小耳症の方と話をしながら、同じ病気ではあるのですが、正直なところ
あぁ、私は両耳小耳症じゃなくて良かったなぁ。
と思ったのも事実です。
もちろん、そう思った直後に上記の質問のように「そう考えるのはいけないことだ」と考え直し、また強い罪悪感を感じたのですが、改めて、そうした感情が生じるのはなぜ?と問われると、難しいですね。
なぜ「良くない事である」と感じるのか
倫理や道徳によって、そう感じるようになる、というのはもちろんあると思います。
例えば子供などは、私の耳を見て「耳が変!」「気持ちわる〜い」などと遠慮なしに言ってきますし、「なんでそんな耳なの?」と訊かれて、生まれたときからこうなのだ*3、などと説明すると大概「かわいそう」とも言われます。
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そうした素直な感情に対しては、私は悪いとは思いません。
実際に私の耳は、普通の耳に比べて変ですし、聴力もほとんどないという機能的な面での不具合もあるのは事実なので、それをもって「普通の人に比べて劣っている」というのは客観的に見て正しいです。なので、そうした意見は特に気に留めることもありませんね。
けれど機能的に不便だからといって、即ち不幸であるかどうか?については主観的であるので、別に障害があるなしにかかわらず、しなくても良いことではないでしょうか。
ただ、同じ小耳症という病気なのに、両耳が小耳症という人に対して生じた感情は、おそらく自分よりも重い症状の人を見ることで、優越感を得ていたのだと思います。そうした優越感が、何故いけないのか?というのは上記の質問で ekutanさんが
この優越感を胸張って認めてしまうと、自分もさらなる強者によって差別され、侮蔑されるべきという事実をも認めることになるからです。だからこの優越感はおおっぴらに他人に言えたりしない。ひっそりと胸にしまってきたい。あるいはそんな感情なかったことにしたい。
と明快な説明されていて、何年も疑問だった部分が少し解けてきました。私はほぼこれに同意します。
またそうした優越感を得るよりは、もっと前向きな考え方をした方がいいのではないかなと思いますね。
ちょっと思ったよりも長くなったので、続きは次回へ。
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