死後50年先にこの文章が読まれることがあるだろうか
というのを、ぼんやり考えてみた。
死んだ後の50年
仮に私が今日死んだとして、2057年11月21日にこの文章がここにあるかどうか?*1
そもそも文明とか人類とかが50年後にもまだ存続しているか?という辺りまで突き詰めると、面倒なのでそこは置いておいて。
はてなの50年後
どーだろうなぁ。別にはてなに限らず、Google、Amazonであっても50年後に存続しているか?という点では疑問。まぁとりあえず、はてなは単独で存続は難しいとしても、Googleみたいな大企業に買収されてる、ということで。
はてなダイアリーの50年後
企業として残っていても、はてなダイアリーまたははてなグループ、つまりblog形式のものが今後50年後にまで文化として残っているか?というのも怪しい。次のトレンドがどうなるかは分からないけれど、ブログ時代とは違ったまた新しい媒体が生まれるかもしれない。
インターネットの50年後
電脳コイルの見過ぎ……じゃないけれど将来的には、今のインターネットとは違うネット空間が主流になっているかもしれない。もちろん、ネットワークで世界中を繋げる、というものは形を変えて続くだろうし、現在のネットと新しいネットとは繋がる技術もきっとあるだろう、とは思う。
ただ、枯れた技術にはなっているかもしれないけれど。
生きている50年
タイトルとは違うけれど、仮に私がこれからさらに50年生きたとして、2057年11月21日にこの文章が読める状態に維持できているだろうか?
うーん。
生きているなら、もし来年はてなが無くなっても、ログを移すなどしてどうにか存続はできると思う、でも5年先、10年先にまでこの文章を維持しているのか?と問われるとちょっと分からない。それぐらい先には嫌になって消すこともあるだろうし、炎上でログ消ししてトンズラ、とかも起こるかもしれない。
まして50年先までは分からない。
20代の頃に書いたエントリーに閲覧者からコメントをいただいて60代になった私がそれに答える
っていうことが果たして有り得るだろうか。上で書いた通り、ネットワークというものが大きく様変わりしているだろうし、場合によってはキーボードで文字を打っていないかもしれない、これから50年かぁ、想像できないな。
そうやってだらだらと考えると、50年後にこの文章が読まれるのはきっと難しいだろう。ならどうしたらいいか?
ちょっと話は変わるけれども、顔文字って誰が考えたものかははっきりしないものの、数年間(十数年?)使われ続けている、そういう感じで、転載され続けるもの、というのは息が長い。
よくあるテンプレート、つまりは短い十数行のストーリーは色々と手を加えられるものの、さまざまなところで、何度も転載され続けて残っていく。それはブログサービスにも、企業の存続にも関係せずに、勝手に広まっていく。言わば一種の小噺・寓話と言ってもいいかな、それもある種のテンプレであって誰が考えた話かは分からないけれど、数十年単位で残っているものがあるわけで。
もちろん、時事背景があるものとか、流行り廃りもあるから消えてくものも多いけれど。
そういうコピペなんかは時間への耐性というのは強いんじゃないかな、と考えていて、自由に転載可、っていう手段はそれを残す手段として、有効なんじゃないか。
まぁそんな考え方で、私は画像を基本的には転載可にしている、という話。
私だけが使っても、どうせたいして多くの人が見れるわけでもないのだから、どんどん使われた方がいいんじゃね?みたいな。
ただ文章を転載可にしてないのは、画像やイラストと違って文章はそれほど利用価値がないだろう、と。使い勝手のいいものじゃないので……と考えていたけれど、長く残すという上記の思索からするれば、転載可にした方がいいのかなとも考え直しているところ。
><
*1:50年後に残すほどの価値があるか、読む人がいるか?という点は置いておいて